21世紀型授業 -広尾学園のICT教育

◇「広尾学園×iPad×ICT教育」カンファレンス2012に行ってきました。公開授業とシンポジウムの二部構成でしたが、私は午前の部の公開授業に参加してきました。 

◇ICT教育というと、電子機器のことばかりが注目されるように感じ、これまではどうも教育の本質的な部分ではないような印象を抱いていました。つまり、ことさらにICTなどと表現しているうちは道具を意識しているわけだから、もっと道具が透明化された段階、すなわちICTなどと表現しなくならない段階にならないと本当の意味でICTが浸透した状態だとは言えないのではないかといった思い込みを持っていたわけです。ところが、今日の広尾学園の授業を見てその偏見は完全に払拭されました。

 

 ◇つまり、チョークと黒板、ノートと鉛筆という道具こそが、むしろ従来の学びを規定していたのだという気づきに至ったわけです。ワープロは、編集機能が充実しているとはいえ、記録・参照という機能においては、ノートと鉛筆を超えるわけではありません。しかし、iPadはこうした記録・参照の機能をはるかに超えた、21世紀型の学びを可能にします。ある時にはノート代わりの入力=記憶装置であり、またある時には百科事典代わり、さらにはカメラのように瞬間撮影する装置、あるいは膨大なレポート類を格納する書庫、そしてみんなの考えが集積する広場・・・。驚くほどたくさんの役割をiPadが担い、しかも生徒たちはそれを道具としてほとんど意識せずに使っているのです。これほどまでに教育のあり方が変わるのかと驚嘆しました。

 

 iPadを使って、プレゼンをする中学1年生。自分の週末の活動を英語で発表する授業では、自分で作ったプレゼン用スライドの写真が、英語で伝え切れないニュアンスを伝えてくれます。相手に自分のメッセージを「伝える」という点では、英語という言語もスライドにおけるビジュアルも同等です。英語で表現しなくてはいけないといった気負いがない分、逆に英語を使ったプレゼンが自然にできてしまうわけです。

 

◇もちろんスライドによる発表はiPadでなくてもできますが、発表者が自分のiPadをプロジェクタにつないで、即座にプレゼンが始まるという簡便さ、すなわち道具が意識されないほど透明になっていることが大事なポイントです。

◇代表者数名のプレゼンを見た後、生徒たちはペアを組んでプレゼンの内容を英語で振り返ります。ですから活動としては、英語学習にフォーカスされており、iPadはまったくと言ってよいほど意識されていないわけです。

 

◇3Fから7Fに場所を移動し、中学2年生のインターナショナルクラスの授業を覗いてみました。ここでは数学の授業を英語で行っています。2学期期末テストのやり直しだそうです。プロジェクタを通して問題がホワイトボードに映し出されています。同じものは、生徒のMac Bookからも見られるようになっています。ここのクラスではMac Bookの横にノートを広げている生徒が目立ちます。幾何や数式を書くにはノートと鉛筆が適しているためでしょう。道具に対する意識はまったくこだわりがなく、柔軟です。

 

◇テスト問題は日本語で記述されていますが、先生の解説には一切日本語がありません。しかもナチュラルスピードで、言い回しも高度なレトリックを含んだものです。帰国子女の多いインターナショナルクラスとはいえ、聞き取りが大変であろうと思いましたが、生徒たちは、しっかりと聞いています。先生は解き方を解説するというよりも、生徒に問いを投げかけていました。ある意味でその問いは、数学との付き合い方を伝えているようでした。表情豊かに、時に生徒に語りかけ、時に自分に語りかける様子はさながら哲学者のようにも見えます。

◇英語レベルでの妥協をせずに授業を進めるということは、何よりも先生が生徒を知的にリスペクトしていることの証です。生徒はそのあたりを敏感に察知し、何よりも先生の期待に応えたいと懸命になるのです。

 

◇この先生にとって英語はやはり道具です。スライドや問題を投影するプロジェクタやMac Bookもまた道具です。数学の解法ですら、もしかしたら道具なのかもしれません。目的は、数学を通して生徒たちとコミュニケートすることにあるのはないかと感じられました。授業が終わったときに生徒たちが自然とこの先生を取り囲む様子を見て、そのことを確信しました。

 

◇これ以外にも高校1年生の医進・サイエンスコースでの生物の実験など、驚くべき授業がいくつかありましたが、それについては本間勇人氏が書いているブログもご参照ください。

 

◇2時間ほどの公開授業を見て感じたのは、広尾学園の進めるICT教育は、教育や学びの質的転換を促すもので、まさに21世紀型と呼ぶにふさわしいものであるということです。それは単にiPadを利用しているというハード面の問題なのではなく、それを駆使して「思考」し、「コミュニケート」し、そして「コラボレート」するということによるのです。

 

◇しかし、これはiPadなど電子機器の存在だけで可能になっているわけではありません。当然先生の事前の準備があればこそなのです。どの授業を見ても、見事なまでにタイムスケジュールがなされていて、無駄な時間がありません。黒板に板書したことを生徒が写し取る時間は不要です。板書内容はすでにiPadに入っていますから、プロジェクタでホワイトボードに映し出すこともできますし、生徒が各自の端末でそれを確認することもできます。すでに共有されている(=保存されている)ものをノートに写し取る必要などはありません。もし、共有されていない情報がホワイトボードに書き込まれたなら、生徒はそれをiPadの内臓カメラで撮影し、手書きメモとともに保存するだけです。

◇そうして空いた時間で、生徒たちは、思考し、議論し、協働することが可能になるわけです。