現役東大生による「Tweet about 東大講義」 第1回
美学芸術学特殊講義 月曜3限
戦後日本を「聴く」:「記録の時代」のレコードとラジオ 講師:渡辺裕教授
3限は昼休みを挟んだ13時から始まる。夏休みで完全に生活リズムが壊れてしまった僕は11時にやっとベッドから抜け出して、この講義へと向かう。大学生は自由だ。
高校までと異なり、学生はそれぞれの履修に従って自分の受けたい講義が行われる教室に移動していく。この講義は80人ほどを収容できる中規模の教室で行われる、この講義は人気があるので席はほとんど埋まる。もちろん自由席だ。教授はプロジェクターとマイクを駆使して講義を進めていく。
13時を5分ほど過ぎたあたりで教授がやってきた。文学部は全体的に雰囲気がユルく、教授も学生もだいたい5分から10分くらい遅刻してやってくる。ちなみに30分教授がやってこないと自動的に休講になる。
さて教授が話し出した。この講義では「聴覚文化」というものを扱う。「聴覚文化」を代表するものは音楽だ。例えば僕たちが普段よく聴くポップミュージックやロック、クラシックなんかがそうだ。しかし音楽は僕たちが趣味で聴くようなものが全てじゃない。映画のサントラや、CMソング、国歌、電車の発車メロディーなど様々ある。さらに音楽以外の「聴覚文化」、ラジオやテレビの音声、レコードやソノシートによる「音のドキュメンタリー」、インタビューの録音といったものにもこの講義は焦点を当てていくという。
以上のようなイントロダクションののち、「東京オリンピック(1964)はいかに『記録』されたか」と題して講義が始まった。
1964年の東京オリンピックの際に、市川崑という映画監督が国の依頼を受けて《東京オリンピック》という記録映画を制作した。この映画は国際的に高い評価を得たのだけれども、完成直後にオリンピック担当大臣からクレームがついてしまった。市川崑監督はそれまでのオリンピック記録映画とはガラッと雰囲気を変えて、芸術性に力を入れて映画を制作した。しかし大臣は「記録性を無視したまったくひどい映画」と切り捨てた。それがきっかけとなって「芸術か記録か」論争が巻き起こったのだけど、果たしてこの事件は、野暮な政治家が映画の芸術性を理解できなかった、というだけのことなのだろうか?という話。
考えてみる。もし運動会を観に来たお父さんが撮ったビデオが芸術性の高いものだったら、と。
息子が徒競走で走るその足跡をズームアップして追う。あえて走者の姿は映さない。玉入れで空中を飛び交う赤玉が青空に映える様子を切り取る。玉が入ったかどうかなんて撮らない。応援合戦の際の和太鼓に驚き泣き出すどこかの家族の赤ん坊を画面いっぱいに映す。組体操の10段ピラミッドで1段目真ん中の子の腕の震えを捉える......。僕はなかなか悪くないと思うのだけど、子供にとっちゃたまったもんじゃないだろうな、と思った。
実際のところ、市川崑監督の《東京オリンピック》を見ると、競技とは全く関係ない会場の隅っこでイチャついているカップルなんかが映されていたりする。大臣がケシカランと思うのも無理はない気もする。だがしかし、こんなカップルがいたというのもまた事実なのだ。わざわざトーキョーまではるばるやってきて、オリンピック競技を観ずに隅っこでイチャついているカップルがいた、という事実。それはもしかしたら、男子400mで日本が予選を突破できなかったという事実よりもずっと面白いことかもしれないと、思う。結局の問題は、「東京オリンピックの記録」とは何か、というところにあったのだろう。 (千代田修平:東京大学4年)