現役東大生 「Tweet about 東大講義」第3回 by 千代田修平
美学芸術学特殊講義 月曜3限
戦後日本を「聴く」:「記録の時代」のレコードとラジオ 講師:渡辺裕教授
1964年の東京オリンピックの記録映画については今回の講義で終わりのはずだ。話は再び、「記録とはなにか」というところに戻っていく。
この時代の「記録映画」や「ドキュメンタリー」というものに対する考え方は、今日のそれとはだいぶ異なるようだ。講義で観た1955年制作の「ひとりの母の記録」という映画は、農家の主婦の生活がいかに大変なものであるかというテーマで長野県の農家の生活を描き出したものだが、実際のところすべてヤラセである。実際には存在しない一家を現地の人々の配役でつくりあげたものであるが、この年の「キネマ旬報」ベスト10で短編部門の1位を獲得している。
こんなのをもし現代でやろうものなら、ねつ造だ!などと激しくバッシングを受けそうだ。実際に存在しない人々に台本の台詞を喋らせて、それでドキュメンタリーだというのだから。特にいまはそういった不正(当時は不正ではなかったようだが)行為に対して国民が異常に厳しいので、炎上間違いなしといったところだろう。
が、しかしそういったことが1964年の≪東京オリンピック≫でも行われていたという。つまり記録映画なのにも関わらずオリンピック開催前から詳細なシナリオが書かれ、さらにそれが「キネマ旬報」に掲載されていたのだ。そのシナリオには南米から一人の若い選手がやってきて、朝靄のかかる選手村を孤独にランニングする......といったことまで描かれていて、実際に映画を見るとそのシナリオに沿うような映像が撮られている。
ここまでくると、オリンピック担当大臣がクレームを入れたのも理解できる気がする。確かにこれは記録とは言い難いのではないか、と。
しかし現在の私達にとってこれほど面白い記録はない。どういうことかというと、これらの映像たちによって、当時の人々が「記録」や「ドキュメンタリー」についてどのように考えていたのかが浮き彫りになるのだ。映像の内容ではなく、形式が記録になるというのは面白い。
それに関連して最近思うのが、人の性質、つまりその人がどういう人なのか、ということも、その人の話す内容ではなく形式によって理解されるのではないかということだ。例えば僕が、趣味はドライブなんですと話すとする。それだけでは僕がどんな人間かわからない、しかし僕がその話をする間、ずっと視線をキョロキョロさせていたらどうだろう。もしくは激しく貧乏ゆすりをしていたら?前者なら落ち着きのない人、後者なら神経質な人だと思うんじゃないだろうか。
……と、特にオチがあるわけでもないのだけれど、この相似が面白かったのでここに記録しておく。読者の方々には是非、この記事の「書かれ方」から筆者がどんな人間なのか推察する遊びでもして頂けたらと思う。