現役東大生 千代田修平の 「Tweet about 東大講義」第4回

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美学芸術学特殊講義 月曜3限

戦後日本を「聴く」:「記録の時代」のレコードとラジオ 講師:渡辺裕教授

記録映画についての講義はもう終わりかと思っていたのだが、まったくそんなことはなかった。さらにこのテーマが続くようだ。前回のコラムの最後でいい感じにまとめてしまったのでバツが悪いのだけど、こちらも続けざるを得ない。

ところでこの朝はとんでもない頭痛で目覚めた。毎年寒くなってくると頭痛がひどくなる。よっぽど講義を自主休講しようかと考えたが(自主休講:大学生の用語で、自主的に休講を決定すること。つまりズル休み。)、ロキソニンを口に放り込んでなんとか出席した。

 講義の内容は、市川監督のオリンピック映画の評価について、様々な文章や他のオリンピック記録映画を参照して掘り下げるというものだった。他のオリンピック記録映画は、淡々と競技の始まりから終わりまでを写すだけで、映像記録以上のなにものかを感じるということはない。どこそこの国の誰々が何秒で勝った。終わり。しかし市川監督はむしろ競技の始まる前や、終わった後を重視する。そこにみなぎる緊張や興奮、歓喜や悔しさ、つまり競技よりも、人間そのものを描きだそうとする意図が感じられる。

しかしやはりそこには作為がある。例えば100m走のスタートの直前、選手が緊張してツバを飲む、ノド仏がごくりと動くシーンなどは、練習の時の映像だという。現代の感覚でいえばどう考えてもそんなのは捏造だと叩かれるだろう。だが、1966年に評論家:今村太平は「それはいわゆるフィクションではない。」と言うのだ。つまり練習の時の様子だろうと、それは本物の緊張の様子で、演技ではないのだから、フィクションではないという。「そういうことまで言いだすと記録映画というものはできなくなっちゃうね。」とまでいう。

 さて、再び「記録とはなにか」という問いに戻ってくる。実は以前、私もドキュメンタリー映画を撮ろうと試みたことがある。とある劇団の公演に密着させてもらい、手持ちカメラをひたすら回し続けた。その際にも「記録とはなにか」という問いにぶち当たった。完全に客観的で中立的な映像なんて撮れないのだ。「自分が」カメラを向けた部分の映像しか残らず、さらに尺を適当にするために編集で「自分が」不必要だと思った部分を削る。結局できあがるのは、「自分が」これがこの劇団の記録だと主観的にイメージする映像なのだ。

 そう考えると、オリンピック選手の緊張として、練習時の映像の方が適当だと感じたら、そのイメージの方が主観的に考えて正しいと感じたら、そちらを使う方がいいのではないか?とも思える。

 結局のところ、世界のあらゆる事象は主観的にしか経験されないのだと考えれば、「記録」に対する向き合いかたもだいぶ変わるだろう。逆に、「記録」であるからには客観的で絶対的に正しいはずだという姿勢を持つことは危険だ。流石にもうプリクラの可愛い画像に騙される人は減ってきたようだけど。