現役東大生 千代田修平の 「Tweet about 東大講義」第5回

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日本史学特殊講義 火曜5限

近代日本の天皇と天皇制   講師:野島陽子教授

 この講義では昭和天皇の政治的人間としての側面について歴史的に考察するという。東大を世界史と地理で受験した私が昭和天皇について知っている知識は恥ずかしくなるほどに乏しい。太平洋戦争のあたりでの天皇で、マッカーサーの隣に立っている写真が印象的、とか、あと戦時中はほとんど神様のように扱われ、極大の権力を付与されていたが、戦後に人間宣言を行い人間となった、とか。ついていけるか心配だ。

 1930年代から50年代にかけての日本近現代史において画期となった政治外交史上の出来事をその時々における天皇の役割と関連づけながら論じるということで、最初は1930年に起こったロンドン海軍軍縮条約を取り上げた。

 ロンドン海軍軍縮条約とは1921年末から開催され、列強の主力艦保有量制限を定めたワシントン海軍軍縮条約に引き続き結ばれた軍縮条約だ。ワシントン海軍軍縮会議では海軍、特に軍令部が対英米7割論を強く主張していたが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の不満をおさえて対英米6割で調印に踏み切った。さて、ロンドン海軍軍縮においては、海軍はワシントン海軍軍縮会議の轍を踏まないように準備をしていたという。最大海軍国に対する補助艦総括7割、大型巡洋艦7割、潜水艦7万8千トン要求を「三大原則」とした。しかし「三大原則」は、1923年の帝国国防方針の「国防所用兵力」には書かれていたが、1928年のジュネーブ会議(軍令部長は鈴木貫太郎、次長は野村吉三郎)での妥協でもわかるように、絶対的なものではなかった。

 そのためか、大型巡洋艦の対米7割は受け入れられないまま政府は条約調印に踏み切ることとなってしまった。するとこれに対して野党立憲政友会、海軍軍令部、右翼などは海軍軍令部長の反対をおし切って政府が兵力量を決定したのは統帥権の干犯だと激しく攻撃し、これがいわゆる統帥権干犯問題と呼ばれる。さて、条約の批准には枢密院の承認が必要なのだが、史料として配布された外務省編刊『日本外交文書 海軍軍備制限条約 枢密院審査記録』で第四回「ロンドン」海軍條約審査委員會の議事録を読むと政府と枢密院がなぜかやたら喧嘩腰で面白い。のっけから枢密院側の金子委員が「然ルニ外務省ニハ、傳統的ニ樞密院ニ對シ反抗ノ態度ヲ執ル傾向アリ」などとかます。さらに外務政務次官が海軍軍縮の関する演説をする際に「若シ樞密院ガ譯ノ分ラヌ言動ニ出デ海軍條約ノ成立ヲ阻礙スルナラバ、我々ハ断乎トシテ樞密院ニ對シ痛撃ヲ加ヘルデアラウト云フ様ナコトヲ放言」したという記事を読んだといって、なぜそれを黙過するのかと問い詰める。これに対し政府側である幤原外務大臣は「意外千萬ナリ」と答え、きっとその記事は速記をもとにしたものではなく、世間の人々の興味を惹くために面白おかしく粉飾したものに違いないとかわす。政府の答弁ののらりくらりとした感じはやはり伝統芸なのだなと認識させられた。

 次回はなぜ枢密院と政府がここまで鋭く対立しているのかを解き明かすところからはじまる。