「21世紀に求められる能力」を考えるセミナー(2)

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思考の出発点として「問い」がある。その問いが生徒に沸き起こるような「問題場面の呈示」を行うのが教師の役割であるということが確認された。それでは、そこに知識はどのように関わってくるのだろうか。菅原先生の問いかけから議論は深まっていった。

知識と思考という概念はよくセットで語られることが多い。思考するためには知識が前提となるという考え方である。知識が必要であることは疑い得ない。しかし、思考の前提に知識が必要だからという理由で、知識ばかりを問うことが果たして妥当なのかどうか。知識をオープンにし、条件として与えた上で思考力を問うことも意義のあることなのではないだろうか。議論は徐々に熱を帯び、知識とは何かという本質的な問いに広がっていった。

知識はインターネット等でいつでも参照することができる。だとすれば、知識を頭の中に貯め込み、記憶しておくことは無意味なのであろうか。料理人が料理を作るときに、レシピを見ながら作っていたら、あるいは教師が生徒の名前を毎回いちいち名簿を見て指名していたら、それは知識を頭に入れている熟練者に比べて、お客や生徒に対して説得力がない。美味しいと感じてもらう、あるいはクラスが楽しいと感じてもらうためには、サービスの提供者が知識を頭に入れておくこと(=記憶)は、決して意味のないことでない。

問題は、知識だけを取り出してテストすることや、知識とセパレートされた思考だけをさせようとすることであろう。要するに、知識と思考を別々に捉えることは不毛であり、両者は一体となっているという考え方の方が現実的であろう。

こうして知識と思考をセパレートしない「知識・思考一元論」とでも呼ぶべき方向へと議論は展開していった。