マスコミ報道を見て思うこと

 社会の中で暮らしている以上、公に言ってはならないことや、言うべきではない局面があるのは止むを得ません。必要がないのに人を傷つけるような言動を発することは戒めるべきでしょう。一方、悪意で取られることを恐れて、自由な言論を慎むような空気があるとすればそれもまた大きな問題です。

 

 今回の大震災とそれに続く原発事故で、自由な報道の限界が見えてしまったマスコミの体質を批判することは容易いことですが、大切なことは、私たちが依存している経済基盤を否定することではなく、民主的な議論・対話に基づいた組織運営、社会づくりができるかどうかでしょう。実際、この震災によって私たちが気づかされたことはたくさんあります。中でも、国や大きな組織によるプロパガンダが現代においても巧妙に仕掛けられているということは決して忘れてはならないことだと思います。

 

 どこの企業、団体においても、「これを言うと睨まれる」「こういうことは言うべきではない」といった、表現の自主規制は、日常的にあります。しかし、この自主規制が自覚できているうちはまだましで、それを客観的にチェックできなくなるほど、集団全体が麻痺状態に陥ってしまうことこそが危険なのだということを、私たちは今回も「後になってから」痛感させられたわけです。

 

 こういう危険は今後も起こり得ます。今回の事態も決して終わってはいません。ですから、私たちは常にクリティカルに考える習慣を持つ必要があります。そしてそのように考えるためには既成の道具や秩序だけを無自覚に受け入れていては駄目なのでしょう。考える手立てを用意する側が、いかに都合よくクリティカルな思考を奪うかは、今回身にしみました。

 

 クリティカルに考える力を育てるためには、そのような思考に自覚的である環境が必要です。そして「自覚的な環境」を作るためには、成員一人ひとりの高度な言葉の鍛錬が必要です。この時期にお祭り騒ぎが不謹慎だという話と、主語のない「自粛」といった言葉で、経済活動が封鎖されてしまう事態を分けて考えることが必要であるように、また、農家や漁師を守るという話と、責任の所在をあいまいにしてしまう「風評被害」といった言葉をだれが利用しようとしているかを見抜こうとする態度とを分けて考える必要があるように、一人ひとりが「声」を上げ、議論・対話をしていくことで、「こと」が「ことば」化して、社会が前進していくのです。

 

 「グッドスクール」を探すことの意義は大きいと改めて感じます。